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Concept

創業の精神

信頼・感謝・情熱

1993年2月26日、富山市一番町にGiGi-HAIRがOPENした。 自分達の店を持つことが私達の夢だった。
2人とも通信教育で理容・美容の免許をとり、毎日朝早くから夜遅くまで 寝る間を惜しんで働いた修行時代からの、ずっと思い描き続けた夢だった。
しかし、オープン当初は売上が無く、生活費も借金で賄っていた。 「何のためにオープンしたのだろう?」
「こんな状態になるならオープンしなければ良かった」と悔いる毎日だった。 毎日、通勤の車の中で「今日、誰も来なかったらどうしよう?」と2人で不安を募らせていた。
オープンする前は根拠のない自信があったが、それから半年で、その自信は全くなくなった。 今来ている一人一人のお客様に一所懸命に接した。とにかく我武者羅だった。
お客様から「信頼」されるようになるしかない! だからお客様に「ノー」と言うことはなかった。 一つ一つ真剣に熱心にお客様のニーズに応えた。
それがお客様の満足につながり、一人また一人とお客様が増えていった。 お客様が増えていくことがうれしくてたまらなかった。
ひたすらに絶え間なく、絶え間なく努力し続けることで 才能より人から必要とされること「信頼」の大切さを痛感した。
お客様との信頼関係、スタッフとの信頼関係。みんなの笑顔。 お客様と共に最高の喜びを創ることがこの仕事の醍醐味なのだと実感した。
その頃、養護施設や福祉施設へボランティアカットを行い始めた。 当初は特別何の思いもなく、カットの練習も兼ねてできるというつもりだった。
しかし、何度か通ううちに施設の人が楽しみに待ってくれるようになったのだ。 ある人はうれしそうに「ありがとう」と笑顔で応えてくれ、
ある人はいつもしないお化粧をして私たちが来るのを待っていてくれた。 創業して初めて自分の仕事に誇りが持てた。
「役に立っている」人に夢と希望を与えていることに自信が持てた。 美容業は尊い仕事だ。私はこの仕事を通して人との絆の大切さを感じ、成長させていただいた。
たくさんの笑顔から勇気をいただいた。 出会ったことに感謝、そしてこの情熱こそが創業したときの精神であった。

代表プロフィール

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村上 雅信

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村上 えり子

業界入りのきっかけ

1985年高校3年生の夏、通っていた理容店に就職を決めた。高校は工業高の建築科だったが、建築家になろうとは思ってはいなかった。
髪のスタイリングに興味があり、自分の髪型にこだわりがあった(ツンツン立たせていた)ので理容師になろうと思った。
自分が通っていた理容店に夏休みからバイトし、そのまま就職へ。秋には石川理美容専門学校の通信課に入学。いつかは独立し、自分の店を持ちたいという夢を描いていた。
高校を卒業してからは、朝8時からの営業に間に合うように出勤し、夜9時まで働いた。昼と夜の食事付き。初任給は食費、入学金立替分が引かれて手取り5万円ほどであった。
当時はお金もなかったし、何よりヘアースタイルをつくることが面白くて毎日練習した。夜11時からがお店のマスターに練習を見てもらえる時間だった。人柄は優しいが技術に対してはとても厳しいマスターだった。4年間勤めていたが技術を褒めてもらえた記憶はほとんど無い。
マスターを尊敬していたが、理容のカットは、まるで雑草を刈るごとく、伸びた髪を切るという考えで、いらないものをカットするような感じである。対して美容のカットは髪を残して形づけるという考えで、髪を大切にして残すようなカットだった。
毎日の練習は夜11時半まで、定休日の月曜も毎週練習した。月100時間くらいは練習していた。ケミカルも徹底的に学び、自宅の部屋は薬液の研究室のようだった。いろんな薬剤を組み合わせて、混ぜたりして、放置時間と髪質の変化等のいろんな実験をした。
大阪の美容通信課にも在籍し、美容科スクーリングのときに萩原宗カッティングスクールに通った。それから徹底的にカットの練習をした。1日3時間、休みの日には6時間ほどカットの練習をして、1ミリにこだわっていた。
当時、お金は無かったが情熱はあった。そして理容の技術より美容の技術に惹かれ始め、美容師になろうと思った。

美容室へ転職

結局、お世話になった理容店を辞め、美容室に移った。 そこでカルチャーショックを受けた。理容は美容に比べると10年遅れていると思った。
技術指導のマニュアルや育成計画のカリキュラムなど、びっしりと完備され、理容のような「何となくという感覚」ではなく、理論に裏づけされた説明が存在した。技術に理論があるということが中途採用の自分にはとてもわかりやすかったし、ありがたかった。
いつか自分でお店を持ったときの技術指導に役立つと思い、必死でマニュアル、カリキュラムを吸収した。
自分流に全部手書きでオリジナルのマニュアル、カリキュラムを作った。将来は技術集団のスーパープロ軍団をつくる!と宣言し、美容界でも特別な技術を持つ軍団をつくりたいと思った。
また美容師のパーマ巻き技術の高さにびっくりした。ぜんぜん敵わなかったし、美容師のパーマ巻きの練習量の多さに驚いた。だから必死に追いつこうとした。ブローの技術も理容とはブラシの使い方が全く違った。
理容ではロングの髪を扱うことが少なかったので、ロングには本当に苦労した。カットには自信があったが、とにかく技術を覚えることで必死だった。美容師はパーマ巻きの練習ばかりで、カットの練習はあまりしないのだ。
スタッフが独立していくことを恐れて、お店側がカットを教えようとしないからだった。当時は経営者の都合しか考えない美容室が多かった。お店にとって、スタッフは人手として必要なだけで、モノのように扱われ、人を使い捨てるという悪しき考えだ。しかし、実践でカットをしないと上手にはならない。
給料は少なくてもいいからとにかくカットをさせてほしいと頼んだ。そしてカットの許可がでて、お客様の髪を切りまくった。ハサミの開閉や動歯、静歯、コームの当て方、カットは基礎を徹底的に練習し、スタイルをあまり知らなかったので、たくさんスタイルの研究をした。アップの練習もよくした。毎日毎日、技術の練習ばかりだった。
その頃は毎日夜8時から12時頃まで練習していた。美容師になって、明けても暮れても練習、練習、お正月もお盆もない!練習三昧だった。
会社のレッスンルームは好きなだけ使わせてもらって、朝まで練習したことも何度もある。誰よりも上手くなりたかった。そしてアシスタントからスタイリストにようやくなることができた。

スタイリストデビュー

本当にいろんな人のおかげで、今の自分の美容師としての土台となる技術を身に付けることができました。当時一緒に切磋琢磨していたのは、今も現役でサロンワークで自分を支えてくれている妻でした。
23歳の頃は、月担当客数(カット担当)100人、主担当売上60~70万円、店販売上は20~30万円くらいでしたが、給料は当時手取りで11万円。そして練習用のウイッグ代に月1万円使っていました。1年半ほど勤めて次のお店に移りました。
美容技術の追求、技術の幅を増やして収入をもっと増やしたいと思ったからです。次のお店では給料はいきなり倍以上の24万円になりました。そこでようやくスタイリストとして認められたと実感しました。
そしてその年に結婚し、2人合わせて収入は45万円以上となり、そこそこ余裕で生活できるようになりました。アシスタントのままでは給料は安くて、技術を習っている分、学費を支払っているようなものでした。
単にカットだけしているスタイリストも稼ぐことができません。真に技術者として、スタイリストとして認められないと仕事はおもしろくないし、いい給料ももらえないので家族を養っていけません。
仕事のやり方も、こなすような流れ作業のようにやるのではなく、しっかりと1人1人と向き合い、お客様のこだわりをわかってあげれるようなスタイリストになりたいと思いました。練習も量ではなく、質を追い求め、プライベートでも高級なものに触れ、本物を目指しました。
当時カット代は4千円でしたが、サスーンは1人のカット代が200万円でした。自分の価値はどうだろうと思い、何となくお客様に聞いてみると「カット1万円だったらもう来ない」と言われました。価格以上の価値を提供することが必要だということに気づきました。質とは正にその価値のこと。質を高める=価値を高める。
完成度の高い仕事が質だと考え、細かいディテールまでこだわり、その質(価値)こそ、お客様との信頼の素となるものだと感じました。ただ、それから独立してお店をオープンしてからが地獄でした。月々は支払いの方が売上より多く、全く収入が無いのです。最初の3ヶ月は借金生活です。マジ後悔しました。

サロンオープン

社員は会社の利益よりも、自身の利益の方が重要。これは生物として当然の流れです。でも、会社の利益を優先しないと会社は潰れ、結局社員は賃金を得る術を失ってしまうのです。こんなことにはならないよう、社員さんには会社の価値観というものをしっかりと理解し、納得して、行動していくことが求められます。最初はそんなことは全く知りませんでした。
25歳の時、1993年2月26日、GiGi-HAIRがオープンした。私と妻と、もう一人スタッフがいて、3人でオープンしました。オープンしてすぐの3月の総売上は30万円くらい。月の支払いは70万円ほどあり、自分たちの給料は0、マイナス40万円。どうしようかと悩んだ。また借金が増える。非常に苦しかった。とにかくお客様を呼ばなくてはならない。
しかし、どうやってお客様を集めればいいのかわからない。やはり目の前のお客様の満足をつくるしかない。つまり、お客様の満足(喜び)=売上だ。
顧客満足>売上  これでは、経費が重なりお店は潰れてしまう。
顧客満足<売上  これでは、いずれお客様が来なくなって、これもお店が潰れてしまう。
顧客満足=売上  これしかない!
お客様と信頼関係を築いていくしかない。創業の頃は、とにかく我武者羅だった。ようやく6月に顧客満足高=売上高が100万円になった。これなら私たち2人の合計給料30万円。なんとかやっていけそうだ。だが、膨らんだ借金はまだまだ返せない。
12月は顧客満足高=売上高が190万円となった。手元に90万円現金が残った。1994年には、今も勤めてくれているマネージャーが入った。その頃は売上も順調でずっと右肩上がりだった。新しいスタッフも入ってきてくれた。1995年は月売上300万円を超えた。
私はヴィダルサスーンのプロダクツインストラクターとなり、カット講師にもなった。しかしサスーンの技術一辺倒の考え方に疑問を感じ、インストラクターを辞退した。お客様の喜びを一番に考えようと思ったからだ。
お客様の喜びと言っても売上とイコールでなくてはならない!美容師なって良かったと思えるようになるには、お客様の喜び=1人当たりの売上高が100万円を創ることだ!そうすることで美容師の地位向上につながり、美容業界が豊かになる。それがこの仕事に求めていた答えだと思う。仕事の質を高め、価値を高める。
それは究極、結果をつくるということだ。結果を創れる美容師になることが、我が社の経営理念に謳われている『親孝行』という意味である。

これからを生きる若い世代に伝えたい、創業の念(おも)い

経営者として美容業界を変えたいと言う前に、何のために会社が存在し、何のために仕事しているのか、誰のために仕事をしているのか、何を目指し、どんな会社にしたいのか、どんな人財になってもらいたいのかを明確に打ち出すことが最も大事なことなのだと気づいてきた。
正しいこと、ものごとの原理原則から外れることなく、努力を積み重ねること。
いつも挑戦する気持ちを忘れずに持ち続けていたい。
自分自身の美容師の原点は「上手くなりたい!」という思いであり、お客様から支持していただくことが今も尚、現役で続いている要因である。去年より今年、今年より来年「上手くなりたい!」そして支持されたい。それが永年目指し続けた「スーパープロ軍団」である。
我が社の原点である創業の精神は「情熱」「感謝」「信頼」だ。「情熱」「感謝」「信頼」は自分が得てきた経験そのものである。
これからもいつも原点に戻って、美容師としての人生を悔いのないものにしていきます。

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